やすらぎの川、みどりの丘

新潟県出身で北海道在住。自由な日々を求めて、毎日を生きる。妬まぬように、焦らぬように。

失われゆく労働力をどこに変換するべきか

労働力は腐りやすく、保存しておくことが出来ない。したがって、豊かになるためには、労働力は常に収益もしくは資産に変換されるべきである。

僕たちは朝起きると、エネルギーの回復した状態で一日がスタートする。これは、働けるだけの体力、意志力があるということなので、労働力がたくさんある状態である。資産を持たない者にとって、労働力というのは、稼ぎを生み出すための唯一の種となる。

実は、労働力は生鮮食品のようなもので、料理しなければすぐに腐ってしまうものでもある。生物的な制約から、僕たちは常にエネルギーを消費し続ける。部屋でゴロゴロしているだけの時間を過ごしても、確実にお腹が減り、疲れるのだ。また、何気ない生活を送るだけでも、数多くの選択を余儀なくされている。これは頭を疲れさせ、意志力を低下させる。今日をどんな服装で過ごすか考えるだけで、精神的なエネルギーが失われているのだ。(こうした選択の余地を減らすために、スティーブ・ジョブズは毎日同じ服を着ていたと言われる)。つまり、一日の中で使える有限な労働力は、時間とともにすぐに失われてしまうものなのである。したがって、これを有意義に変換して行かなければ、たちまちに何もできなくなり、今日という日が終わってしまうだろう。

金銭的に豊かになるために、労働力の優れた変換先として挙げられるのはふたつである。収益もしくは資産(=将来的にお金を生むもの)だ。まず、働いている人ならば、平日には勤めに行くことによって、労働力を収益に変換しているはずである。これはよくある話であり、何か語る必要はない。重要なことは、腐りやすい労働力を耐久力の有る資産に変換することだ。(おせっかいであるし、耳の痛い話でもあるのだが、)休日のYouTubeを見ている時間は、読書や資格の勉強などに切り替えられるべきなのである。自分のビジネス、商品を持っている(将来的に持ちたい)のならば、それに費やされるべきなのである。時間と労働力はすぐに消えるから、それらを受け止めてくれる器に注がれるべきなのである。

Time is money.(ベンジャミン・フランクリン

高く飛べなくなったバッタの話。

高く飛べなくなったバッタの話をご存じだろうか。あるバッタはもともと2メートルの高さまで飛ぶことができる。ここで、このバッタを捕まえてケースに閉じ込め、天井に透明なアクリルの蓋をしてみよう。ポイントは、この天井を高さ50センチメートルのところに設置することだ。閉じ込められたバッタは、最初は天井の透明な蓋に気付かず、ジャンプをしては何度か頭をぶつける。そうしているうちにバッタは学習し、頭をぶつけることのない、50センチメートル未満のジャンプしかしなくなる。

さあ、天井の透明な蓋を外してみよう。バッタはもう一度、本来の2メートルのジャンプをするだろうか。いや、そうではない。この学習したバッタは、もう自分の本来の跳躍力を取り戻さない。透明な蓋なんてないことにすら気付かずに、残りの一生を終えるのである。実は、この話はバッタだけに限らない。このようにポテンシャルを活かしきれていないのは、いま目の前にいるあなたも同じであるかもしれない。あなたの人生にも、かつて頭をぶつけた経験があり、本来の頑張りをできていない可能性があるのではないか、ということだ。

実は、50センチメートルまでしか飛べなくなってしまったバッタも、また2メートルの高さまで飛べるように戻すための方法がある。それは、2メートル飛ぶことのできるバッタを近くに入れて、実際に見せてやる事だ。そうすると、例のバッタは「俺にもできる!」と言わんばかりに、また高く高く飛ぶようになるのだ。これを人間に当てはめるなら、自分の限界を超えたように見える努力している人を知るべきだ、ということになるだろう。そしてそれは、例えば本からでも学べる。あなたの周りに努力家は多くないかも知れないが、本を覗けば、たくさんの立派な跳躍が見られることだろう。偉大な功績を上げた人物は、自伝が出版されていることが多い(例として、孫正義さんのものをオススメする)。彼らはまさしく2メートル飛んだバッタだ。彼らの背中を追いかけ、いつもより高く飛んでみようではないか。

最初にあったのは夢と根拠のない自信だけ
孫正義 / ソフトバンクグループ代表取締役会長兼社長)

 

21世紀の道徳ではなぜ「弱いものが善」とされるのか。

僕たちは多くの常識的な価値観の中に生きている。目上の人に反抗してはならない、弱いものに対して優しくあるべきだ、浮気をすることはいけない、などがそうだ。では、これらの道徳と呼ばれる価値観は、絶対的なものなのだろうか。

いや、そうではないだろう。例えばキリスト教では、ひとりの男はひとりの女と結ばれるべきだという一夫一妻制の教えがあるが、世界を見回せば、一夫一妻制ではない文化は数多く存在している。ひとつの例を挙げるならば、キリスト教に次ぐ大きさの宗教であるイスラム教は、4人までの妻を持つことが許されている。ここには、浮気をしてはいけないという道徳はない。また、このような文化はなにもイスラム教に限らず、他の多くのところでも見られる。

ここで、さらに視野を広げてみよう。ホモサピエンス以外の動物の世界を見てみるのだ。そこには、普段の僕たちが見かける常識とは大きく異なった世界がある。そこにあるのは、弱肉強食の「強いものが善である」というルールである。もし、剛腕なクマとひ弱なクマがいたら、剛腕なクマの方が善い。なぜなら、その方が獲物をたくさん捕ってくるだろうし、長く生き延びることだってできるだろうからだ。これらは動物にとって、当然善いことである。

では、人間ではどうか。あなたは、お金や権力を貪欲に求めるオオカミのような人と、そうではないおとなしいヒツジのような人の、どちらが善人であると思うだろうか。恐らく多くの人は後者を選ぶだろう。人間社会では、常識的で道徳の分かる控えめな人間が、一般的には善い人なのだ。しかし、これはおかしなことではないだろうか。お金や権力を欲している人を感覚的には善人だと思わないが、しかしながら、それらを欲することは当たり前のことだろう。だって、大半の人は、お金や権力が手に入るというならば、手に入れたいだろうからだ。

このように人間社会では、強い者もしくは強さを求める者は、必ずしも善とはならない。これは人間以外の動物の社会と比較してみると、大きく異なっている部分である。なぜこのようなことが起こっているのだろうか。ニーチェは、この答えを、ユダヤ人の迫害の歴史の中に見つけ出した。迫害されて奴隷になったユダヤ人が、一種の負け惜しみとしてこのような価値観を作り出したのだ。つまり、権力を手に入れられかった彼らは、権力を持つこと自体を悪とみなしたのである。食べられなかったブドウを酸っぱいと決めつけた童話の中の狐と同じだ。こうした価値観は、ユダヤ教からキリスト教に伝搬され、のちに世界に拡大していくことになる。そして、現在に至っている。

さて、長くなってきてしまった。つまり、結論をまとめると、「弱いものが善」であるという道徳は、ユダヤ教の迫害の歴史から生まれた一種の負け惜しみであり、動物世界のルールを無視した幻想なのである。さらにはっきりと言うならば、道徳とは、弱者の妬みが凝縮されて生まれた代物なのだ。この道徳に則って生きていくか、いかないか、それは個人で決めるべき自由なのであるが、僕は後者であることを支持していくことにしたい。僕は、動物世界の不偏的なルールに従って、強さを探求する人間でありたいのだ。

悪とは何か?-弱さから生じるすべてのものである。(フリードリヒ・ニーチェ

 

センス・オブ・ワンダーを持って、世界を散歩する。

沈黙の春』の著書でよく知られるレイチェル・カーソンは、その瑞々しい感性をもって自然を見続け、農薬が及ぼす環境への問題を鋭く指摘した。彼女は56歳の若さにして癌で亡くなってしまうのだが、その最期のときに書いていた本が『センス・オブ・ワンダー』である。この本は、彼女の息子ロジャーに向けて書かれている。

残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄み切った洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直観力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。もしもわたしが、すべての子どもたちに話しかける力を持っているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性」を授けてほしいとたのむでしょう。
(『センス・オブ・ワンダーレイチェル・カーソン)


至言である。センス・オブ・ワンダーとは、つまるところ、世界を楽しみ尽くす力のことだ。空を見上げる、草木に目を凝らす、鳥の鳴き声を聞く、そこから大自然の面白みを感じる。そうしたならば、世界はどれだけ魅力的なものになるだろうか。

世界は面白い。僕はその面白さの100万分の1も分かっていないだろうけれど、それでも余りあるくらいに世界は面白みに溢れている。しかし、それに気付くか気付かないかは、その人次第なのだ。少しばかりの自我と教養を仲間にしよう。そして、消えないセンス・オブ・ワンダーを持って、世界を散歩しよう。

最後に、尊敬するもう一人の女性の言葉を紹介してこの記事を締めくくろうと思う。彼女もまた、この世界を楽しみ尽くしていただろうから。

私のような大学も出ていない年をとった無知な女でも、まだ道端に咲いている花の名前を一日に一つぐらいは覚えることができる。一つ名前を知れば、世界の謎が一つ解けたことになる。その分だけ人生と世界は単純になっていく。だからこそ、人生は楽しく、生きることは素晴らしい。(ココ・シャネル) 

リアリストであれ。

私たちホモサピエンスが生み出した偉大な発明の一つは、建前だ。他の動物も簡単な嘘をつくことはできるが、非常に高度な嘘の技術、つまり建前を話せる動物はサピエンスしかいない。

建前には、光の部分と闇の部分が混在する。光の部分とは、それによって他人を操作できるということだ。上司のつまらないギャグに作り笑いをして場を盛り上げることは、典型と言えるだろう。これは、空気を読む能力が高いということであって、決して悪いことではない。(むしろ、素直で空気を読めない人間の方が悪いとされることも多いだろう。)

反面、建前の闇の部分とは、現実を歪めているということだ。先ほどの例で言うならば、上司のギャグは「つまらない」ものであるのに、その場では「面白い」ことになってしまっている。(もちろん、つまらない、面白いといったことには明確な定義がないのだが、ここでは黙認して欲しい。) こうした建前によって、上司の見る現実は歪められる。いわば、目に赤色か青色かのレンズを埋め込まれたような状態になる。歪んだ色眼鏡を通しては、本当の現実の色はわからない。この上司は今後、変色した現実を生きることでなんらかのギャップを感じることになるだろう。実際にこういう人は多くいる。これは上司にとって、大きな問題だ。

さらに問題なのは、この問題を作ったのは、非常に行儀の良い部下である。彼は決して悪いと思ってやっているのではない。ただ、彼は空気が読める男であったために、この問題を作ってしまったのだ。

さて、この小話では、いったい誰が悪いだろう?僕は、上司であると思う。部下のしていることは、良心から来たものであり、結果として問題の種になろうとも、それを咎める気にはならない。上司が建前のわからない、空気の読めない男であったから、現実を歪めて見るという問題が起きるのだ。もし僕が上司ならば(そして客観的になれるのならば)、このことに対して、自責の念を抱くだろう。そして、嘘を嘘だと見抜けるようになりたいと願う。他人の嘘を見抜き、他人のために嘘(建前)をつける、そんなリアリストになりたいと思うのだ。

質問をするときに考えるべき方針と3つのポイント

他人のプレゼンテーションを聞いていても、特に意見やら質問やらを思いつかないことがある。僕が思うに、質問をすることは、意外に難しいことだ。だから、会議をしらけさせないためにも、あらかじめ質問の仕方を考えて、整理しておくことが有用だと思っている。

まず第一の方針は、とにかくたくさんの質問を考えることだ。これは、最初の発言と一見して矛盾しているようだが、そうではない。普通に思っているよりも、質問のハードルをグッと下げる必要があるということだ。質問を考えることは一種のブレインストーミングであり、質よりも量がものを言う。最初にたくさんの質問を考え、そのあとになって間引くという段階に入ればいいのだ。

また、質問を考えるときには、あらかじめポイントとなる思考フレームを持っていると、なお良いだろう。哲学者の野矢茂樹さんは、①情報の問い、②意味の問い、③論証の問い、という3つの問いの種類を挙げている。①用語の定義や具体例などを問うもの、②言葉の言い回しの意味を問うもの、③話の論理性を問うものである。僕の作った次の文章と、この試行フレームを使って質問を考えてみよう。


「近年、人工知能が大きなブームの一つとなっている。人間の脳を模倣、応用して作られた技術であるディープラーニングは、いずれ人間を超えるだろう。人間は人工知能の奴隷となるのだ」

①情報の問い(用語の定義や具体例を問う)
人工知能の定義は何か?
ディープラーニングは具体的に何ができるものか?

②意味の問い(言葉の言い回しを問う)
「人間の脳を模倣」しているとは、どのような意味か?
「人間を超える」とは、どういった状況を指すのか?

③論証の問い(話の論理性を問う)
なぜディープラーニングは人間を超えると言えるのか?
ディープラーニングが人間を超えたとして、なぜ奴隷になるのか?


簡単な文章ではあったが、いくらかの問いを考え、分類することができた。このようにして質問を考えた後に、話の根幹を問うものや、他人が聞いてためになるような質問を優先的にしていけばよい。

アウトプットの量は少ないほうが良い

とある情報をインプットしたとして、そこからアウトプットされる量は少ないほうがいい。なぜなら、アウトプットとは、誰かのインプットになるものであって、その情報は効率的に圧縮されたものであるべきだからだ。価値の高い情報とは、手短なメッセージで、他人をダイレクトに刺激できる情報のことである。