やすらぎの川、みどりの丘

新潟県出身で北海道在住。自由な日々を求めて、毎日を生きる。妬まぬように、焦らぬように。

21世紀の道徳ではなぜ「弱いものが善」とされるのか。

僕たちは多くの常識的な価値観の中に生きている。目上の人に反抗してはならない、弱いものに対して優しくあるべきだ、浮気をすることはいけない、などがそうだ。では、これらの道徳と呼ばれる価値観は、絶対的なものなのだろうか。

いや、そうではないだろう。例えばキリスト教では、ひとりの男はひとりの女と結ばれるべきだという一夫一妻制の教えがあるが、世界を見回せば、一夫一妻制ではない文化は数多く存在している。ひとつの例を挙げるならば、キリスト教に次ぐ大きさの宗教であるイスラム教は、4人までの妻を持つことが許されている。ここには、浮気をしてはいけないという道徳はない。また、このような文化はなにもイスラム教に限らず、他の多くのところでも見られる。

ここで、さらに視野を広げてみよう。ホモサピエンス以外の動物の世界を見てみるのだ。そこには、普段の僕たちが見かける常識とは大きく異なった世界がある。そこにあるのは、弱肉強食の「強いものが善である」というルールである。もし、剛腕なクマとひ弱なクマがいたら、剛腕なクマの方が善い。なぜなら、その方が獲物をたくさん捕ってくるだろうし、長く生き延びることだってできるだろうからだ。これらは動物にとって、当然善いことである。

では、人間ではどうか。あなたは、お金や権力を貪欲に求めるオオカミのような人と、そうではないおとなしいヒツジのような人の、どちらが善人であると思うだろうか。恐らく多くの人は後者を選ぶだろう。人間社会では、常識的で道徳の分かる控えめな人間が、一般的には善い人なのだ。しかし、これはおかしなことではないだろうか。お金や権力を欲している人を感覚的には善人だと思わないが、しかしながら、それらを欲することは当たり前のことだろう。だって、大半の人は、お金や権力が手に入るというならば、手に入れたいだろうからだ。

このように人間社会では、強い者もしくは強さを求める者は、必ずしも善とはならない。これは人間以外の動物の社会と比較してみると、大きく異なっている部分である。なぜこのようなことが起こっているのだろうか。ニーチェは、この答えを、ユダヤ人の迫害の歴史の中に見つけ出した。迫害されて奴隷になったユダヤ人が、一種の負け惜しみとしてこのような価値観を作り出したのだ。つまり、権力を手に入れられかった彼らは、権力を持つこと自体を悪とみなしたのである。食べられなかったブドウを酸っぱいと決めつけた童話の中の狐と同じだ。こうした価値観は、ユダヤ教からキリスト教に伝搬され、のちに世界に拡大していくことになる。そして、現在に至っている。

さて、長くなってきてしまった。つまり、結論をまとめると、「弱いものが善」であるという道徳は、ユダヤ教の迫害の歴史から生まれた一種の負け惜しみであり、動物世界のルールを無視した幻想なのである。さらにはっきりと言うならば、道徳とは、弱者の妬みが凝縮されて生まれた代物なのだ。この道徳に則って生きていくか、いかないか、それは個人で決めるべき自由なのであるが、僕は後者であることを支持していくことにしたい。僕は、動物世界の不偏的なルールに従って、強さを探求する人間でありたいのだ。

悪とは何か?-弱さから生じるすべてのものである。(フリードリヒ・ニーチェ