やすらぎの川、みどりの丘

新潟県出身で北海道在住。自由な日々を求めて、毎日を生きる。妬まぬように、焦らぬように。

「押すと幸福になれるボタン」があったとしよう。

目の前にボタンがある。このボタンを押すと、頭の中に電撃が走るように気持ちがいい。そんなボタン。

僕たち人間は、みな自分の幸福を追い求めて生きているから、これを倫理的に否定するのは難しい。また、私は自分の幸福ばかりを追いかけているエゴイストではない、誰かのために生きているのだ、という人がいたとしても、それは誰かの幸福を願うことが自分の幸福になっているだけのことだ。だから、このことは否定できない。

倫理的に否定されないこの幸福ボタンが存在していたら、どうなるのか?

おそらく、ものすごく不気味なことが起きる。その例に、脳に電極を差し込まれたネズミの実験がある。ボタンを押すことで快楽をもたらす電流を与えられるようなシステムの下に置かれたネズミは、食べることも忘れてボタンを押し続けるというものだ。そして、最高の「幸福」の中で死んでいく。僕たちがこの姿を端から見たら、きっとゾッとするだろう。幸福を追い求めるという倫理的に正しい行動を追求すると、なぜか、不気味な感覚に陥る。ここに、合成の誤謬が発生してしまうのだ。

よく考えてみれば、このボタンって、実はドラッグのことではないだろうか。実際に、人生を大成功させたと言えるだろう大物歌手のマイケルジャクソンやホイットニーヒューストンは、ドラッグを使用して「幸福な死」を遂げた。これはネズミの実験と同じようなものだから、端から見たら大変に奇妙に思えることだが、当の本人たちにとっては願ってもみない幸せな時間だったのかもしれない。

さらに言うと、白米やYouTubeなども、「押すと幸福になれるボタン」の一種ではないだろうか。白米は、玄米から高濃度に糖を精製したもので、動物が本能的に欲してしまうものでありながら、知らずのうちに体をダメにする。また、寝る間も惜しんでYouTubeを見ている若者も、それを(意識的もしくは無意識的に)やりたくてやっているわけだが、三大欲求の何かが満たされるわけでもないし、よく考えてみれば非常に不気味な光景ではないだろうか。

問題なのは、これらは合法で、ありふれたものだということだ。人類を死に至らしめる「押すと幸福になれるボタン」が発売されようものなら、おそらく激しい反発に合い、規制の対象になるだろう。(このボタンは、技術的には作ることができるだろう。)しかしながら、白米やYouTubeは規制の対象にはならない。なぜなら、これらは一見して良いか悪いか分かりづらい、非常にグレーなところを攻めているからだ。

僕たちは旧石器時代の脳で現代を生きている。そこに、多くの技術革新によって、知らずのうちに人間の脳をハックする技術が開発されてきた。実は、この矛盾を標的にしたテクノロジーこそが富の源泉であり、「価値」と言われているもののひとつなのかもしれない。